とあるボルダーその20その2

2008年 8月22日記

 とあるボルダーその二日目

 5時ころには目が覚めた。結構寒い。昨夜も、夕方には半袖では寒いくらいだったし、テントもベンチを閉め、入り口もしっかりと閉めて寝たのだが、夜中に少し寒さを感じて何回か目が覚めてしまった位だ。

 相棒も4歳の息子もまだ寝ていたので、テントを抜け出すと、周りにいくつかテントが増えていた。そういえば、夜中に自動車の音がしていたりしたので、夜中に来た人達がいたのであろう。

 管理棟の脇から下に降りている舗装された道を下り、天場の下の、植樹のためだろう木の植えられた畑のような場所や、その下のオートキャンプ場の近くまで行って見た。その畑様の中の細い遊歩道に入り、上の天場から降りている木製の階段に行こうとしたのだが、途中法面が崩れているところがあり、階段まで行くことができなかった。

 駐車場に行って見ると、自動車も何台か増えていた。ここに常駐しているように見受けられたお仲間が自転車に乗っておられたので、挨拶をし、少しお話をした。

 その方曰く、ここに集まっているクライマーは日本の超一流のクライマーばかりだとか。と言われても、辺境ボルダラーの小生にはほとんど面識のないかた達ばかりだから、どなたがどなただかはほとんど分からなかった。

 食事をしながら、駐車場の方を見ていたのだが、ボルダーマットを背負った集団はほとんど見られなかった。ここに集まったクライマーはほとんどがルートを登る人のようだ。

 隣のテントの人と少しお話をさせていただいていたので、その人達が支度をしているところを眺めていたら、なんだか見たことのある人がいた。あれー、なんか見たことのある人だなぁーと思いながら、少し近づいて行ったら、たまに行きつけのジムでお会いする、小生と同じくらいの年格好の人だった。どうやらその日の朝に到着されたようだった。

 挨拶をし、しばらくお話をしていた。

 そのグループが出発する時に、何時頃までここにいるかと聞くから、多分10時過ぎ位まではぐだぐだしていると答えると、今韮崎の人がくるから、その、○○の自動車に乗った人がきたら、メモを置いて行くので、このテントを教えて上げて呉と頼まれた。

 相棒が昼は管理棟で売っていたおにぎりにしようというから、管理棟に行ってみた。しかし、まだおにぎりは置いてはいなかった。食堂の小母さんに聞くと、今からご飯を炊くから、11時頃になってしまうと言われた。

 おにぎりは諦めるかとか言っていたのだが、結局はうだうだしていたら、さすが土曜日、ということで、何張りかのテントが増えた。その中には、昔ジムで御一緒させて頂いていた方もいた。その方は、我々の奥の隣にテントを建てたので、一応ご挨拶をした。その方は、奥様と二人のお子さん連れだった。

 そんなこんなで、11時頃になってしまっていた。しかし、まだ遅れてくるという方の自動車が確認できなかった。

 時間がご飯が炊ける頃になっていたので、相棒が管理棟に行くと、おにぎりを取っておこうかどうか迷っていた所だと言われたとか。別に予約していた訳ではないが、迷惑をかけずに済んだようで、少し安心した。

 どこに行くか考えたのだが、土曜日だし、人が来るかもしれないということで、やはり以前から登れそうで登れない、離陸が一つの核心となっている課題のある、嘆きの壁に行くことにした。

 阿修羅のエリアに行く時に良く使う駐車場には、何台かの自動車が停まっていた。多分、阿修羅の岩には何人かのボルダラーがいたのであろう。

 いつも自動車を停める場所に行くと、既に1台の自動車が停まっていた。ここは、嘆きの壁に行く人よりは、一般の人が良く使う駐車場所なのだが、やはり、嘆きの壁には人はいなかった。

 やっぱり湿気ていた。左端の1級の課題は苔が相当に戻っていた。

 昔の記憶を思い出しつつ、スタートホールドを探って見ると、とっても持てる状態ではなかった。スタンスも薄緑色だったし。

 1級の課題を触るのは諦め、裏の右端のスラブを触ることにした。多分、そんなに難しい課題ではなかったはずだが、こちらも苔が戻っており、一部濡れている所もあったし、指先だけがかかる小さな浅いポケットを使う課題だから、多分グレードも上がっているはずだ。

 下地の傾斜が結構きついから、靴が汚れないように適当に足場となりそうな場所に足拭きマットを置きながら、岩を触って見た。適当なホールドと足で離陸して見た。全く離陸ができなかった。

 手、足を探して見た。左手少し上のポケット、右足はアバタのスメアで離陸して見た。なんとか離陸はできた。そのまま左手を左上の2連のポケットを取ってみた。なんとか持てる。右手は。探したが、持てそうなものは見つからなかった。

 上に回り、右上の斜めカチとかその左の縦カチに見えるところとかを確認した後、その場所を下から磨いて見た。なんとか持てそうな薄カチが出現した。

 2連のポケットからその右上のうすカチを取ったら、左上のやはり薄カチが取れた。そのホールドで体を上げて行ったら、なんとか体があがった。後はリップ上のホールドになりそうなところを無理やり掴み、膝やお腹など、使える物は総動員し、なんとか岩の上にはい上った。

 それまでに何回落ちたことか。2回や3回ではなかった。その度にマットがずれたりして靴が汚れたが、それを手で拭き拭きトライを重ねて、やっとの思いで登ることができた。

 なんだか、すごく泥臭くはあったが、それなりに満足ができた。グレード? それは分からない。まぁ、そんなのどうでも良いことだ。何たって自己満足の世界なのだから。

 4歳の息子は、傍らの小川で元気良く遊んでいた。

 しばらくぼっとしながら、おにぎりを食べたりしてしばらく休んでいた。

 次はそこから近いということもあって、久しぶりに、栗林のエリアに行くことにした。既に2時だった。

 その林道は途中から舗装路になり、それは奥までずっと続いていた。やはり、この周辺の林道の舗装化は相当に進んでいるようだった。

 いつもの場所に自動車を停め、小クジラ岩を見に行った。ここもやはり苔が戻りつつあった。大原船長の凹角は苔は無かったが、上の方のスラブ面はだいぶん苔が生えていた。

 少し被ったカンテ状の、SDの確か初段の課題のあるところを見て見た。意外と格好よく見えたので、SDではなく、立ったまま手の届くホールドで、離陸して見た。なんだか、行けそうに思えたので、靴を履き、トライすることにした。

 ガバ、ガバ、ガバと、上に登り、岩の上に立つことができた。易しいから、当たり前と言えば当たり前なのだが、なんとなく気持ちが良かった。

 斜めに穴の続く壁に戻り、その穴を使って登って見た。その壁もやはり苔が戻っているが、手が良いので、なんとかリップまで行くことができた。しかし、リップにホールドが見つからなかった。リップも苔だらけだ。リップを持つのは小生には難しい。ホールドになりそうな所を探したら、右上のリップの少し奥の方に大きめのポケットが見つかった。

 続いて、大原船長を登って見た。凹角をなんとか登り、左のスラブに乗り出す所まで行った。クロスで持つ左のスラブのホールドを触って見た。なんだかすごく悪かった。スタンスもうっすらと緑色になっていた。この課題、すぐ後ろに木が生えており、いざとなればその木を掴めばなんとか下までは落ちずに済ませることができるのだが、やっぱり、スラブへの一歩が踏み出せなかった。

 時間はまだ3時前だった。しかし、食料も少なくなっていたので、川上村のスーパーに買い物に行くことにした。

 そこからだと、信州峠への近道になりそうな林道が使えるのだが、相棒が携帯電話の充電器をテントに置いてきたと言うので、それを取りに帰るため、一旦天場まで戻ることにした。

 黒森から相棒がまた携帯電話で娘との通話を始めた。その時、峠の前後で電波の届かないところが現れたが、相棒と4歳の息子は娘とずっと話をしていた。

 スーパーで、丸い形のベビーラーメンを見つけたので、それを買ってもらった。そのラーメンは、その時持参していた、カップ麺を作る容器に多分収まる大きさだったのだ。

 この容器、実はカップ麺のカップ代を浮かすためにインスタントラーメン屋が考え出した、カップ麺と同じような形をしたプラスチックの容器なのだが、カップ麺のように細長い格好をしているので、普通のインスタントラーメンだたいくつかに割らないと入らないのだ。どうしても割った時にくずがこぼれてしまうのだ。

 4歳の息子が捕虫網を見つけ、欲しいというので虫籠といっしょに買ってあげた。その時、その網の販売元の住所を見ると、母の生まれ故郷の隣町であり、今回お会いした瑞牆のお仲間の生まれ故郷でもあったのだ。小さいころよく連れて行ってもらっていたので、なんだか懐かしくなってしまった。

 天場への帰り道でもやはり、娘と4歳の息子が携帯で話していたのだが、黒森から鎌瀬林道に入ると携帯の電波は届かなくなってしまう。そろそろ電波が切れると言いながら話をしていたのだが、いざ電波が切れると、息子が急に泣き出してしまった。やっぱり母親が恋しかったようだ。

 駐車場に行って見ると、母の生家の隣町出身の仲間がいたので、早速捕虫網を持って見せに行ってしまった。

 既に暗くなってしまっていたので、テントの中で炊事をした。食事の後、トイレに行こうとしたら、相棒も行くというので、4歳の息子に一人でも大丈夫かと聞いて見たところ、大丈夫との返事が帰ってきた。回りもいくつかテントも建っているし、明かりも点けてあるので、大丈夫だろうと二人でトイレに行き、小生が先に戻ると、なんだか赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。声の方向が我々のテントの方向だったのだが、我々のテントの奥には赤ちゃん連れの昔のジムの仲間のテントがある。その方の赤ちゃんだろうと思ってテントに近付くと、我々のテントからだった。やっぱり一人にされて泣いてしまったようだ。やっぱりまだ4歳だった。

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作成年月日 平成20年 8月23日
作 成 者 本庄 章