白木ボルダーに行ってきました

   北陸のボルダーめぐり第五段目
2005年10月 7日記
 北陸ボルダリングツアー第5日目である。

 河野道の駅の駐車場で、朝7の時頃、自動車の外に出る。結構気持ちの良い朝である。

 我々が自動車を停めた前は、崖に張り出した少し広い展望所のようなところになっている。そこの端っこの方に東屋がある。そこに炊事道具を持ち出し、朝食の用意を始める。

 我々の横に停まっていた自動車のお姉さんが相棒に話し掛けてくる。金沢から、昨夜急遽京都に行こうと誘われて来たらしい。元々は長野の人の様だ。

 我々のアルマイトの小さな両手鍋を見て、仕切りと感心している。熟年のおじさんとおばさんが道の駅のベンチで、アルマイトの鍋を、カセットコンロのボンベむきだしのバーナーに乗せて、うどんを茹でているなんて、その人にとっては、多分珍しかったのだろう。

 暫く、今回の我々の旅行のこととか、長野のこととか、時々小生も交えて、暫くお話をしてしまった。

 荷物を片付けていたら、自転車に乗った、まだ高校生くらいの若いお兄ちゃんが、写真を撮ってくれと頼んでくる。片付けの途中だったので、本の少し待ってもらって、その二人組のお兄ちゃんの二台のデジカメのシャッターを押してあげる。バックには、敦賀半島の敦賀原発の建物らしいものが小さく見えていた。

 出発してすぐのちょっとした坂道で、自転車を押しているそのお兄ちゃん達を追い越す。お兄ちゃんたちも大変だなぁ。ぇっ、今日は月曜日だよなぁ。

 8号線から敦賀の町に入る分岐を、右折だとばかり思い込んでいる間に、陸橋に登ってしまい通り越してしまった。少し遠回りして街中に進む。

 気比の松原とかいう看板が見える。帰りに寄ってみよう。

 敦賀半島の東海岸に入り、途中から峠越えで西海岸に移る。その馬の背峠を越えて最初に見えてくる海岸を水晶海岸と言うらしい。物凄く広い駐車場が有ったのだが、その大半の部分には柵が回され、そのほんの一部分だけが駐車場として使えるように開放されていた。

 海岸線を暫く走ると、美浜原発の前を通る。その物々しい格好でガードマンの立っている原発への入り口の脇に原発のPRセンターがあった。

 そこから少し山に入り、トンネルを越えて、再び海岸に出ると、そこが白木である。ここにも高速増殖炉「もんじゅ」があるらしい。やっぱりガードマンが立っていた。

 研修施設だかなんだかのすごく大きなコンクリートの建物と、物凄く広い駐車場の間を通り抜け、海岸に降りて行くと、そこが白木の海水浴場になっている。その海水浴場の防波堤の脇を更に進むとその先が漁港である。

 漁港の入り口には「この先は県が管理する漁港施設だから一般の人の立ち入りを禁止する」「事故が有っても責任はとらない」だかなんだかの看板が立てられている。

 漁港の奥の防波堤を見ると、その近辺には沢山の釣り人らしい影が動いている。その人たちのものであろう自動車も多数停められている。そのまま先に進む。

 一番奥の防波堤の際まで行き、釣り人の物だろう自動車の隣に自動車を停める。

 トポの説明には「漁港の奥」とあるから、多分この防波堤の外側だろうと勝手に考え、その防波堤の付け根の傾斜の緩いちょっとした岩壁を登り、防波堤の外側を偵察する。

 防波堤の外側の下にはテトラポットが置かれており、その左側の方は切り立った岩壁になっている。ボルダーの姿などどこにも見えない。

 元に戻り、後ろに控える小高い丘の斜面を見上げる。防波堤の基部の岩に続いて、その斜面に幾つものボルダーが見える。この斜面なのだろうか。その斜面の左側の方に目をやると、その斜面の基部に、写真にあるような3つ並んだ岩が見える。あれだー。

 腰ほどの高さの草を少し漕いで近付いてみたら、やっぱりそれに間違いが無い。

 でも、取り付きは草茫々である。先ずはこの草を踏みつけなければ。

 自動車に残っていた相棒を呼びに行き、支度を始める。

 先ずは真中の8級の課題である。

 真っ直ぐに立った壁を左側のカンテを使って登って行く課題である。逆層になっていて、ガバガバではないから離陸に詰まる。でも、まぁ、8級だから。隣の岩に移って降りてくる。

 次は左の6級だ。こちらはハング越えのラインである。

 トポを良く見ると、SDとある。岩を見ると、確かに左の方にクラックが走っている。小生にとっては、グレードなどはどうでも良いことだから、そんなことは気にせずに登りたいように登ればよいのだが、見るとなんだか気になってしまう。忠実に、クラックからSDでスタートする。

 ハングを越えて上に抜けると、相棒がシャッターが下りないと言う。なんだかメッセージが出たようだとも言う。見に行ったら、デジカメのメモリーを使い切ってしまっていた。

 以前の写真もメモリーに残したままだから、いっぱいになってしまったのだ。最初から20枚位の写真を削除する。

 SDだし、ハングの乗り越しだし、疲れる小生の苦手な課題だから、余りやりたくなかったが、丁度ハングを乗っ越す所の写真が撮れていなかったから、もう一回その課題を登ってしまった。

 続いては右っ側の4級の課題である。僅かに被ったここの中では一番高い課題だ。

 僅かなクラックや凹凸があるし、途中からカンテを使ったから、あっさりと登る。なんか、先の8級の課題よりも易しく感じた。二本のクラックを跨いで登ると有るから、ラインを間違っているのだろうか。確かに縦に日本クラックもあるし。もう一度トポを見直したら、二本のクラックを繋いで登るだった。字の色が黄色だったから見難かったのだ。でも、やっぱり間違ってるのかなぁ。

 後は多分2〜3級だろうというプロジェクトのトラバース課題だ。

 トラバースは疲れるから、もういいや。

 先ほど防波堤の外を偵察したときに登った岩の上の斜面が気になったから、一人で行ってみた。

 さっきは横に行ったところをそのまま直上し、そのまま踏み跡に従って藪の中に入ると、尚もその踏み後は続いている。もしやと思って登っていったら、コンクリートで作った木柵風の柵にぶつかり、その奥にはベンチが見えた。

 柵を越えて、そのベンチの方に行ってみたら、「門ヶ崎展望所」の看板があり、防波堤の上からチラッと見えた岸壁の先が一望できた。そこには、大きな高い岸壁が海に張り出しており、その先の海の中には2つか3つの岩塔が立っていた。

 少し移動してその岩壁を見に行ったら、ちょっとした入江が入り込み、そこから結構高さのある岩壁が立ち上がっている。ロープがあったらあそこを登ってみたいなぁ、そう思わせる岩壁であった。(後に調べたらやっぱり、「門ヶ崎」として、4〜5本のナチュプロによるラインが引かれていた。)

 そこの展望所に入ってきているしっかりした踏み跡を辿って戻ってみた。

 下から見えた大き目のボルダーや、その上のもう少し小降りのボルダーがすぐ近くに見える。トポには「岩は、ココ以外にも沢山ありますが、アプローチを作るのが核心って感じ」とあるが、ここからならそんなに核心という感じでも無さそうに見える。一番上の反対側の柵の近くの岩に近寄って触ってみたら、表面は大きな結晶が飛び出し、ざらざらだった。

 そのままその道を進むと、暫くトラバースした後、港の入り口辺りに下りていた。

 自動車に戻り、自動車をその展望所への小道の入り口近くまで移動させ、相棒と共に、再びその道で展望所まで行ってみた。そして、ベンチに座り、対岸に見えるもんじゅを眺めながら、お話をしたり、残りのパンを食べたりして、ほんの少しゆっくりしてしまった。

 帰り際に、折角登ってきたし、多分誰も登っていない岩だろうし、勿体無いからどれか登ってみようかと、一番大きな岩に藪を濃いで近付いていったら、刺のある茨かなんかで思い切り足を傷つけてしまった。そうしたら、なんだかやる気が失せてしまって、すごすごと引き返してきてしまった。まぁ、表面が余りにもざらざら過ぎるし、掃除をしなければ登れないだろうとの敗退の弁を考えつつ。

 港の入り口には綺麗な洒落たトイレがある。折角だからと、使わせてもらって手を洗ってしまった。

 これで一応の予定は終了である。後は一路千葉まで帰るだけである。日差しが強く少し汗ばむ位の陽気の中、帰路につくことにした。

 戻る途中、先ほどの原発PR館に寄って見ることにする。

 駐車場に自動車を停め、その前にある大きな案内板を見物する。えーっと、どんな看板だったっけ。

 一通り眺めてから建物の方に行き、玄関の前に立ったのだが、玄関が開いてくれない。若しかして? 営業時間などが書かれた札を見たら、月曜日は休館だった。

 来る時に寄って見ようと考えていた気比の松原が見えてきた。道の反対側にはそれ用の大きな駐車場らしきところも見える。しかし、その駐車場の前辺りから松林の中に舗装された2車線の道路が分岐しているから、そのままその道に入ってみる。

 暫く松林の中を走ると、十字路が現れる。左に行けばたぶん海だろうと、そこを左折してみた。案の定、程なく正面に海の見える大きな駐車場に出た。

 一番奥のすぐ前が砂浜の場所に自動車を停める。外にも何台も自動車が停まっている。12時過ぎだから、昼食を摂りに来ているのだろうか。駐車場の右の端っこの砂浜のところでは、家族連れらしい一団が地面に座っている。左側の少し先の松林の前にも地面に座っている人たちがいる。正面では釣りをしている人達もいる。駐車場には小型トラックや4ナンバーのワンボックスカーも停まっていた。

 自動車を降り、海岸淵の砂浜を歩いてみる。ここは日本三大松原の一つらしい。

 所で、日本三大松原ってどことどことどこなんだ。三保の松原は多分そうなんだろうけど、ここがそうだとすればもう一つはどこなんだ。因みに調べてみたら、天橋立らしい。そして、三つ目はここともう一つ、佐賀の虹の松原とか言うところらしい。

 大体日本三大何とかって、三番目は複数有るのが一般的の様だ。と言うのも、あっちこっちでうちが三番目だと名乗っているからの様だ。そういえば、三大何とかって謳いながら、外の二つを表示している場所を未だかつて見たことが無い。そんなことはどうでも良いことだが。

 自動車に戻り、自動車の前にある石のベンチでコーヒーを沸かしていたら、隣に停まった自動車の老夫婦が、慌てて戻ってきた。お弁当を食べようと浜辺まで行く途中で鳶に狙われたらしいのだ。そういえば鳶が2〜3羽とカラスが数羽空を舞っていた。

 子供連れの若いお母さんがやってきた。そして、荷物を持って波打ち際の方に歩いていった。そのお母さんを追って、小さな子供も歩き出した。

 その子供は手になにやら食べ物らしきものを持っていた。もしやと注目していたら、その子供のすぐ近くの真上を鳶が廻ってそのまま上に上がっていった。あの子の持っていたのは食べ物ではなかったのだろうか。それにしても、あぁ良かった。無事で。

 その駐車場の脇に小さな小屋がある。その小屋は観光案内所になっている。行ってみたら、おばさんが一人番をしていて、パンフレットが沢山置いてあった。その中の適当なものを幾つか貰ってしまった。

 後はもう只帰るだけである。来る時に左折してきた十字路を直進し、一般道にでる。

 敦賀から北陸道に乗る。既に1時を過ぎているから、賤ヶ岳SAでアジフライ定食を食べ、給油をする。

 なんだか中途半端な時間である。ゆっくり帰っても今日中には十分に着くだろう。

 米原ジャンクションで名神に合流し、関が原を越える。前々回の関が原は雪だったっけ。そういえば最近は名神を良く走るなぁ。

 名古屋に近付くとさすが自動車が増えてくる。もう少しで渋滞という感じの数である。

 ラジオでは一宮で渋滞と報じていた。しかし、一宮は渋滞も無く通り過ぎることが出来た。

 ゆっくりだったから、少し頑張って、富士川SAまで走ってしまった。

 突然、東名のどこかのサービスエリアに床屋があったことを思い出す。実は、このツアーの前から相棒が小生に向かって、床屋に行け床屋に行けと五月蝿く言っていたのである。時間も余裕がありそうだし、丁度よいから寄ってみるかと思ったのである。

 カウンターで地図を貰って調べてみたがなかなか判らない。相棒にもそのことを話したから、相棒がわざわざカウンターに聞きに言ってくれる。その間、暇だから、小生も一生懸命地図を探してみた。あった。海老名のサービスエリアの上りにあった。営業時間は午後9時まで。余裕を見て8時までに着ければ大丈夫だろうか。

 相棒が戻ってきて、カウンターのお姉さんも知らなくて外の人と一緒に探してくれたのだとか。そして、参考になったと喜んでくれたらしい。

 今まで通り80〜90kmで走ったのでは遅れる恐れがある。その後はほぼ100〜110kmで走ってしまった。

 その甲斐あって、海老名には8時頃に着くことが出来た。

 床屋は2階であった。値段は1000円である。看板には10分で1000円とある。

 先客が二人頭を刈ってもらっている。待っている人はいなかった。

 見ていたら、ここでは頭は洗わず、バキュームホースで刈りクズを吸い取ってしまうシステムの様だ。そして、各椅子の下は髪の毛を貯める入れ物になっているから、いちいちチリトリを持ってくる必要も無い。さすが考えられているなぁと感心してしまった。剃刀も一切使わないから、本当に10分で終わるかも知れない。剃刀がいやで最近は美容院に行っていたセッカチな小生にはぴったりである。

 すっきりした。

 少し急いできたから、夕食はまだである。二人で夕食にする。

 最初は2階のレストランに行ってみたが、気に入ったものが見当たらなかったので、1階の食堂に戻り、豚肉丼を食べた。

 お腹が膨れたら急に眠くなってきた。もうここまで来ているし、それに、あと3時間もすれば夜間割引が適用されるということで、ここで仮眠することにした。

 仮眠だから、半分しかない毛布をかけるだけで横になった。

 目が覚めたら12時半である。もうこんな時間だ。中途半端な時間だったから、何となくまだ眠い感じも残っていたが、そのまま出発することにした。

 首都高に入ると渋滞が始まった。夜間の工事の様だ。久しぶりに完全に停まってしまう渋滞である。

 渋谷を過ぎ、環状線に入ってまたまた渋滞に会う。3回目か4回目位の渋滞だろうか。なんだかあっちこっちで渋滞だった。

 レインボーブリッジを過ぎるともう渋滞は無かった。

 家に帰り着いたら、既に3時に近くなってしまっていた。

 うーん、一般の物見遊山も、なかなか良いものだった。


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作成年月日 平成17年10月 8日
作 成 者 本庄 章