先に、「ボルダラー宣言?」なる物を公表した。そこでは、中高年にはボルダリングが向いていると書いた。それから、2年近くが過ぎた。その間に小生は、室内のボードのみならず、本物のボルダーを登るようになった。そして、やっと本物のボルダラーとなることが出来た。本物のボルダラー宣言
2001年3月18日記
そこで、再度小生はボルダラーである事をここに宣言することにしよう。
2年程前、小生はムーブの習得にとボルダリングの練習に専念した。そこでボルダリングの単純さ、面白さに接した。そして、今から考えると幸運であった相棒をビレイヤーに仕立て上げる事に失敗したということも有って、本当の(外の)ボルダリングにのめり込んでいった。
曰く、道具に、ロープもプロテクションもハーネスも要らない。疲れる前に登れば良い。ビレイヤーの心配などさらさら無い。ルートクライミングよりは怪我は多いかもしれない。しかし、落ちても死ぬ事はないだろう。等など。
実際にやってみて、ボルダリングの怪我の要素は、ただ一つ、着地だけだということがわかった。ボルダリングではクライマーの落下から着地までに何の介在物も無い。それに反し、ルートクライミングでは、ハーネス、ロープ、ヌンチャク、ハンガー、確保器、ビレイヤー等など、沢山の介在物が存在する。そして、それらの組み合わせによってクライミングの安全が確保される。その内の1つにでも欠陥があればクライマーの安全は確保されない。
ボルダリングでは岩、本人の登り方、下地だけが安全の確保に関与するだけだ。岩の欠損などの不可抗力を除けば、全て本人の制御下にある。他人の所為には出来ない。スポットやクラッシュパッドもあくまでも補助に過ぎない。従って、ルートクライミングよりも安全を管理しやすいと言える。
ボルダリングは失敗すれば地面まで飛び降りる事になる。その時の小さな衝撃が度重なる事による体への障害を心配する向きも有る。それは有るかもしれない。しかし、最近では、骨への度重なる衝撃が骨を強くするとの知見もあるようである。この辺は、医学特有の、いい加減な知見への過大な期待なのかも知れないが。
ボルダリングは全てにわたってシンプルなのである。そして、全てが自分の責任なのである。だからこそ美しいのである。
ボルダリングはもしかすると力の総合芸術かもしれない。
でないとしても、やっぱり美しい物が一番なのだ。