ボルダリングのグレードって? ボルダリングの難しさって?

2004年 2月18日記
 ボルダー課題には一般的にはその難しさを表すグレードが付されている。それは、日本では、段級グレードだったり、デシマルグレードだったりする。或いはフランスのフォンテンヌブローの体系や、アメリカのVグレードを流用していたりする。最近は少なくなったとはいえ、その場所の独自のグレード体系を用いている所もあったりする。

 例えば、段級グレードだと、ある特定の課題を1級の標準とし、それより難しいと段としてその数を増やして行き、それより易しいと級の数を増やして行くとされている。他のグレード体系でも、段級グレードの様にその体系の基準となる課題が明らかにはなってはいないようだが、他の課題との比較でグレードが付されるようである。

 以後ここではボルダー課題のグレードについてのみ言及することにする。

 課題にグレードを付すると言うことは、その難しさ加減を大勢の人たちと共有しようという試みである筈である。御岳の1級も北山公園の1級も難しさは大体同じであるというのがその目指す所であろうと想像する。

 しかし、現実は地域によって、或いはそのエリアの中でも、同じグレードが付されている課題の難しさに違いを感ずることが間々ある。そのことは、その人その人によって得手不得手があるから、いくらかは仕方の無いことでは有ろうが、同じような系統の課題間でもどうも腑に落ちないものがあったりするのも現実である。

 ここで、ボルダー課題の難しさって何なんだろうと言うことで、その難しさの要素について考えて見よう。

 先ず1つには技術の難度があろう。例えば、スラブ、例えばクラックに対する技術がそれに当たろう。もっと基本的なところでは、体の振り、キョン足の使い方、ホールドの保持の仕方、等などであろう。

 例えば、スキーのバッジテストでは、ボーゲンができれば何級、クリスチャニアができれば何級等と、その技術に難易が定められている。しかし、ボルダリングにはそのようなはっきりとした技術への難易は決められてはいない。何々の岩質の何度の傾斜のスラブの立ちこみができれば何級等という基準は無い。ハンドジャムができれば、フィストジャムができれば等も全く聞かない。完全に個人の体感のみを基準にしている様に思われる。

 もう1つの基準としては、力をどれほど必要とするかというものが基準になりそうである。現に、ホールドの保持のし易さである程度のグレーディングがされているように思う。所謂一手ものの課題のその一手のホールドがその様に評価されている様に感ずる課題も幾つかある。小生などは、その様な課題で、2級のホールドはこんな感じかと納得したことも幾度かある。

 或いは、被っていて少し長めだから全体的な力がないと難しいとか、この一手は引き付けの力がないと出来ないから難しいとか。実際Vグレードの基準がこれだと言う気もする。

 続いては見方を少し変えて、実際に各人がそれぞれの課題に対して感ずる難しさ加減について考えて見ることにしようか。

 これは技術と言うことと関連するわけだが、マントルの課題の場合、マントリングを得意とする人が少ないせいか、一般的にグレードが辛いと言われている。例えば、三段ボルダラーが中々出来ない2級のマントルとかも存在する。そんな課題でも得意な人にはやさしいらしい。

 このことはクラックの課題にも言える事である。3級だと言われても、小生には全く手の出ないクラックの課題も結構ある。

 それらは、練習をしていない、その技術を知らないということで、難しく感じることは容易に想像できるから、それはそれで良いのだろうが、この辺を同じグレード体系で評価することが良いのかどうかと言う疑問が残ることも確かである。殆どの人が難しいと言うマントルやクラックの課題は殆どの人たちにはやはり難しいのであるから。

 力を必要とする課題の場合、例えば被った壁の課題の場合、年寄りには物凄く難しく感じられる。例えば小生の場合、お陰様で3級位までなら何とか登れるのだが、被っていると4級でも全く手が出ない課題がある。5級位でもちょっと疲れていると歯が立たないものもある。

 まぁ、被りに対しては、見た目である程度の想像は付くから諦めも早いのだが、それ程被ってもおらず、足や手が悪く身体張力や指力を必要とする課題の場合、往々にして物凄く辛いグレードが付されており、なぜ登れないのか、中々諦めがつかないことがある。こういう課題が曲者なのである。

 つまり、打ち込んでしまうのである。まぁ、そういう課題の場合、足や手の使い方で、何とか逃げることができるものもあり、それなりの時間をかけると登れる課題もあることはある。でも、そうやって登った場合の体感グレードでもやはり辛く感じるのが普通である。そういうムーブは、やはり自分のそのときの限界に近いことが多いからである。

 以上、大分に散漫になってしまったが、なんとなく漠然と感じる難しさの1つの側面では有ると思う。

 ここで、再び、ボルダリングの難しさの指標って何だろう。ボルダリングのグレードって何だろう。

 やっぱり昔から言われている、単なる1つの難しさの指標に過ぎないと言うことなのだろうか。

 確かにある一面を表す指標であることは理解する。しかし、その数値が一人歩きしていることも事実である。先に小生が使った「三段ボルダラー」、あるいは「有段者」という言葉は一般にも通用する言葉であろう。俺は初段を登ったんだと言えば、初対面の人からでも一定の評価をしてもらえることも確かであろう。

 そして、その内実は、実際は各人各様、テンデンバラバラだと言うのが否定出来ない事実であろう。

 ある高名なボルダラーに、グレードの客観性について聞いてみたが、主観的で良いのではと言われたことがある。

 やっぱり、グレードって、単なる目安であって、各人各様で良いのだろうとは理解はするのだが。

 とは言いつつも、でも、限界ぎりぎりのグレードって、各人で意外と正確に認識されていて、既存のグレードも意外とその感覚にマッチしていると実感されるのはどういうことなのかなぁ。やっぱり主観が正しいのかなぁ。それが、ボルダリングの相対的な経験年数なのかなぁ。でも休むと確実にグレード落ちるしなぁ。

 それで以下結論である。

 この自分の限界グレードの感覚が正しいのである。先人が長い時間をかけて積み上げてきた、この限界グレードの感覚による体系が正しいのである。最近の高グレードを登る人たちの付する低グレードが間違っているのである。その辺をある程度正しくグレーディングできる人もいる事はいるのだろうが、殆どの人がグレーディングできないと見るのが正しいのである。そう、一般に流布する最近のグレーディングのうち、3級以下はおかしいと思ってほぼ間違いが無いのである。初中級者はもっと上級者の付する中級以下の課題のグレードに異議を唱えようではないか。って、そこまで言ってしまって良いのかなぁ。まぁいいや、どうせ小生の影響力なんて全く無いんだから。


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作成年月日 平成16年 2月18日
作 成 者 本庄 章